【引退会見動画付き】お疲れ様 上原浩治。そしてありがとう。

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素人では凄さが伝わりにくいスゴいピッチャー

上原浩治引退 「えっ!今日なの?今シーズン限りじゃなくて!?」今朝第一報を見て思ったことだ。
高橋由伸、高橋尚成、井端弘和、岡島秀樹、かつてジャイアンツで活躍した昭和50年生まれの最後の一人にして同学年最高のピッチャーがついにユニフォームを脱ぐ。同じ50年生まれとして、もうちょっと頑張ってほしかったというのが正直なところ。1軍で背番号19をもう一度見たかった。でも、それはファンのわがまま。今は素直にお疲れ様と言おう。

日米通算で134128セーブ104ホールド。防御率はNPBで3.02、MLBで2.66。奪三振はNPBで1400、MLBで572(あと28個で日米2000奪三振だった)。

数字もスゴいのだけれど、上原の凄さは、140キロ前後のストレートとスプリットで抑えてしまうところ。映像でみていると、コントロールが抜群なのはわかるけれど、そのボールがどれだけスゴいのかさっぱりわからない。パワプロでも球種が少ないから結構打たれるし(笑)。ボールの回転と球の出どころがわかりにくいピッチングフォームが上原の140キロ前後のボールを150キロにも体感させてしまうらしいが、素人にはさっぱりわからない。それももう観られない。

雨の神宮での登板が印象深い

上原のピッチングで、僕が一番記憶に残っているのは、神宮球場で土砂降りの雨の中で登板した試合だ。2007年、9月11日。ジャイアンツは優勝争いの真っ只中にいた。2-6と4点リードで9回裏のマウンドに上がったのは、セットアッパーの豊田だった。でも、豊田はランナーを2人出して降板。この年、クローザーを務めていた上原がマウンドに上った。

天候は土砂降りで、テレビ越しに雨粒がはっきり見えるくらい降っていた。ホームベース付近もマウンドあたりも水が浮いていて、野球をするにはあまりにも厳しい状況。テレビで観ていて、「怪我してからじゃ遅いから、とっととコールドゲームにしてくれ」と思っていた。飯原を三振に仕留めて1アウトを取ったものの、続く川本に3ランホームランを打たれて1点差。続く城石、青木にもヒットを打たれ、またたくまにサヨナラのピンチ。

マウンドは本当にぐちゃぐちゃで、足の踏ん張りはまったく効かないから、ボールに体重が乗らないし、コントロールだってままならない。これで打者を打ち取れという方が無理な話。勝ち負けよりも、上原が故障するんじゃないかと、そっちを心配していた記憶がある。でも、9回1アウトだから審判もコールドにしずらい。

たまらず、原監督が出てきて、マウンド付近で審判と話していた。この時もずーっと「コールドにしてくれー」って思っていた。ひとまず試合が中断となって、46分後に再開。この中断があっても上原は集中力を切らさず、足場が少しマシになったマウンドで、続く田中浩康とラミレスから連続三振を奪い、見事勝利を納めた。

上原はずっと先発志向だったので、最初の巨人在籍時に1年間通してリリーフをしたのは2007年だけだった。この年のリリーフでの経験、雨の神宮での経験が後のメジャーリーガー上原浩治の糧となったのだと思う。

上原のテンポのよい小気味良いピッチングがもう観られないのは残念だけれど、21年間の現役生活お疲れ様、そしてありがとう。

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1975年、ジャイアンツの歴史上、唯一の最下位だった年に生まれる。
同学年の選手は高橋由伸、上原浩治、高橋尚成、井端弘和、岡島秀樹など。

生まれてからの最初の記憶が、祖父の家のテレビで観た王さんの756号という巨人ファン。1989年の近鉄との日本シリーズ、3連敗からの逆転日本一を疑わず、それが実現したことから、本格的にジャイアンツにのめり込む。

高校時代から東京ドームに通い始め、1994年には東京ドームでアルバイトをし、日本シリーズでは長嶋茂雄監督の胴上げを生で観る

大学時代に某スポーツ解析ソフトウェア会社にアルバイトとして働き始め、そのまま入職。野球とラグビーのデータ入力と解析を担当した。

2008年には年間およそ50試合ほど、東京ドーム、神宮、横浜などで観戦したが、仕事の都合上、現在は日テレG+での観戦やネット観戦が多い。

夢は東京ドームの年間シートを購入して、毎試合生観戦すること。

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