こんにちは。ジャビッ党ナビゲーターの橙子(仮)です。
ジャビッ党の新しい企画として、かつてジャイアンツのユニフォームを着て活躍した、OBを紹介するジャイアンツOB列伝というコラムをお送りします。
輝かしい記録を残したレジェンドから、かなりマニアックな選手まで、ジャイアンツの歴史を彩ったOBたちの現役時代を見ていきたいと思います。
※なお基本的にコラム内では敬称略でいきたいと思います。
長嶋茂雄はジャイアンツにとって神様みたいなもの
第1回は、やっぱりこの人ですよね。
ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄。

橙子は、ミスターの現役時代はぜんぜん知らないんですけれど、ジャイアンツファンはもちろん、関係者にとっては神様みたいな人ですよね。
ミスターは、4番打者としてV9を達成するジャイアンツの黄金時代をけん引してきました。長嶋の活躍がジャイアンツの人気を不動のものとし、プロ野球を国民的スポーツに押し上げたといっても過言ではありません。
「ミスタープロ野球」って呼ばれることもありますもんね。
プロ野球ファンで、ミスターのことが「嫌い」という人はあまりいないのではないかと思います。太陽のような明るいキャラクターがみんなから愛された理由のひとつかと思うのですが、何よりも「チャンスに強い」打者だったからではないでしょうか?
「燃える男」なんてあだ名もあって、大舞台やチャンスであるほど活躍したというイメージがあります。
「記録より記憶に残るプレーヤー」なんて言われることもあるけれど、実は数々の輝かしい記録も残しているんです。
4三振デビューも新人で2冠王、幻のトリプル3
立教大学で六大学リーグの本塁打記録(8本)を打ち立て、スター選手となった、長嶋茂雄はジャイアンツに入団します。
当時はドラフト制度がなく、選手は好きな球団を選ぶことができました。長嶋は立教大学の先輩・大沢啓二(当時は昌芳)のいる南海ホークスに入団することが決まりかけていましたが、母親から「在京球団に」と懇願されて巨人入りを決めたそうです。
当時の1800万円は現在の貨幣価値で約1億2000万円
即戦力として期待されていた長嶋はルーキーイヤーの1958年、シーズン開幕前のオープン戦で7本のホームランを打ち、開幕1軍入りを果たしました。
そして、4月5日に3番サードにてペナントレース開幕戦に先発出場します。



その試合では、のちに400勝投手となる国鉄スワローズのエース・金田正一と対戦して4打席連続三振を喫します。金田が投じた全19球の中で長嶋がバットに当てられたのはわずか1球のみでした。
金田正一は長嶋との初対戦を振り返り、強烈なフルスイングに驚いたことや長嶋という新人に刺激を受けて猛練習を開始したことなどを語っています。
デビュー戦こそ不発に終わったものの、4月7日に初安打、10日には初ホームランを打ち、その後も活躍を重ね、8月からは不調の川上哲治に替わり、巨人軍第25代4番打者となります。
ここから「4番サード・長嶋」の時代が続きます。秋に入ってからも調子を落とす事なく活躍した長嶋は、首位打者こそ逃したものの、本塁打王と打点王の2冠を獲得しました。さらに打率3割以上をマークしたほか、37盗塁を決めています。
長嶋茂雄の1年目の成績
打率.305 29本塁打 92打点 37盗塁
(本塁打王・打点王・新人王・ベストナイン)
打率は惜しくも2位だったのですが、安打数は1位。それも新人記録。新人の安打記録は2019年に阪神の近本光司に抜かれるまではセ・リーグ記録でした。
二塁打もその年1位で、三塁打は1本足りずに2位。もし、三塁打も1位だったら、単打、二塁打、三塁打、本塁打のすべてで1位という、とてつもない記録だったんです。
ちなみに、この記録を達成した人はまだいません。
そして、ホームランはあと1本打っていれば、トリプル3だったんですね。
っていうか、実は、打っていたんですよ30本塁打。
9月19日の広島戦で長嶋は28号ホームランを打つんですが、なんと一塁ベースを踏み忘れるという大チョンボ!ホームランは取り消されてしまいます(記録はピッチャーゴロ)。
もしこの時にきちんと一塁ベースを踏んでいれば、ルーキーイヤーにしてトリプル3を達成するという偉大な記録が誕生していたんですね。
天覧試合でのサヨナラ弾など記憶に残る活躍
ルーキーイヤーに2冠王に輝いた長嶋はあっという間に国民的なスターとなっていきます。当時、プロ野球は「職業野球」と呼ばれており、人気面では東京六大学リーグの方が人気が高かったといわれています。
その六大学リーグのスターであった長嶋がプロ野球でも活躍することで、プロ野球そのものを国民的スポーツへと押し上げ、自身はスーパースターへとなっていくのです。
プロ野球を国民的スポーツ、長嶋茂雄をスーパースターへと押し上げたひとつのきっかけが、1959年6月25日に後楽園球場で開催された天覧試合です。長嶋茂雄、2年目のシーズンでした。
天覧試合とは天皇陛下が観戦する武道やスポーツの試合のことで、プロ野球での天覧試合は、昭和天皇ご夫妻が後楽園球場でご観覧なさったこの試合だけです。カードは読売ジャイアンツ対阪神タイガースの伝統の一戦です。
長嶋をはじめとするジャイアンツの選手や、対戦相手となるタイガース選手は皆、天皇皇后両陛下が観戦する試合とあって最高のモチベーションで試合に臨みました。
長嶋は定位置の「4番サード」で先発出場し、0‐1のビハインドで迎えた5回裏に同点となる第12号ホームランを放ちます。5番の坂崎が続いてホームランを打ち、2-1と逆転しますが、6回に3点を奪われ2-4と逆転されるシーソーゲームとなりました。
ジャイアンツは7回裏に6番でスタメン出場していたルーキー・王貞治の第4号2ランホームランで同点とします。これがONアベックアーチの第1号でした。
試合は4-4の同点のまま、9回を迎えます。天皇陛下はご退席される時間が決まっており、その時刻は21時15分。その時間が着々と迫ってきていました。
そんな中、まずジャイアンツは藤田元司がタイガース打線を抑えて9回裏に進みます。時刻は21時12分。この回先頭の長嶋は7回からマウンドに上がっていた村山実のボールをとらえ、レフトポール際へ第13号サヨナラホームランを放ちました。



長嶋のサヨナラホームランによって、天皇皇后両陛下はぎりぎりのタイミングで試合終了を見届けることができました。この伝説的なエピソードによって長嶋のカリスマ性はより高まりました。
長嶋の大舞台での勝負強さは、こうしたエピソードやイメージだけでなく、数字としても示されています。
日本シリーズの歴代記録でわかる長嶋の勝負強さ
- 通算最多試合出場 王貞治 77試合
- 通算最多本塁打 王貞治 29本
- 通算最多打点 長嶋茂雄 66点
シーズンの通算打率が.305、日本シリーズが.343、オールスターゲーム.313とすべてで通算打率3割を残しているのはプロ野球界で唯一・長嶋茂雄だけなのです(2019年現在)。
天覧試合で国民の心をわしづかみにした長嶋は、ファンの期待にしっかりと応え続け、2年目の1959年から4年目の1961年まで3年連続で首位打者(.334、.334、.353)のタイトルを獲得します。
ショートゴロを横取り、驚くべき長嶋の守備範囲
長嶋は守備範囲も抜群に広い選手でした。



現在、守備力を推し量る数値としてUZRが用いられることが多いですが、UZRは映像などで打球処理を確認する必要があることや、算出方法が複雑なため、長嶋茂雄のUZRを算出することは不可能です。
そこで、一人の選手が9イニングで取ったアウトの数を数値化した「レンジファクター(RF)」という数値で長嶋茂雄の守備を見てみましょう。
RF値= (刺殺 + 補殺) ÷ 守備イニング数 × 9なのですが、今回は簡易版の(刺殺+補殺)÷試合数でみてみます。
2019年 高橋周平(中日 セ・リーグ ゴールデングラブ賞)簡易RF値(RF/G)=2.31
60年前の長嶋と現在の高橋周でここまで大きく数字が違うのは左打者の人数や右打ちの技術などの違いで、昔よりもサードの守備機会が減った結果です。
では長嶋のルーキーイヤーである1958年にタイガースのレギュラーだった三宅秀史や、長嶋入団前年にサードのレギュラーだった土屋正孝と比べてみましょう。
1957年 土屋正孝 RF/G=3.39 【113試合 94刺殺 289捕殺】
こう見ると、長嶋の3.95という数字は傑出しており、いかに守備範囲が広かったかがわかります。
長嶋は、ショートゴロを横からかっさらっていった、なんて言われていますが、その影響をもっとも受けたのが、当時ショートを守っていた広岡達朗でしょう。
今でこそ、ジャイアンツをディスるアンチ巨人の代表格みたいなOBとしてのイメージが強い広岡達朗ですが、現役時代は守備の名手として名をはせました。
そんな広岡の唯一といいって言い見せ場である守備機会が長嶋の入団によって減ってしまったのです。
長嶋茂雄入団前後の巨人の三塁手と広岡の簡易RF値
年 | 三塁手 | 遊撃手 |
---|---|---|
1956年 | 土屋正孝 RF/G=3.18 | 広岡達朗 RF/G=5.20 |
1957年 | 土屋正孝 RF/G=3.39 | 広岡達朗 RF/G=5.08 |
1958年 | 長嶋茂雄 RF/G=3.95 | 広岡達朗 RF/G=4.39 |
1959年 | 長嶋茂雄 RF/G=3.85 | 広岡達朗 RF/G=4.89 |
1960年 | 長嶋茂雄 RF/G=3.69 | 広岡達朗 RF/G=3.99 |
1961年 | 長嶋茂雄 RF/G=3.83 | 広岡達朗 RF/G=4.27 |
ちなみに、RF値は、違うポジション同士では比較できません。左右に守備範囲が広がるショートと主に左方向が守備範囲のサードでは、そもそもの守備機会が違うからです。
ご覧のように長嶋入団前の広岡はRF/Gが5を超えるほどの守備範囲を誇っていたのに、長嶋入団後は5を下回ってしまいます。
まさに、ショートゴロを長嶋によって横取りされていたことが、数値でも明らかになっているのです。
参考 ベースボールチャンネル
V9の中心打者として日本プロ野球界の顔に
1958年にジャイアンツの選手を引退した川上哲治は、ヘッドコーチを経て1961年に監督に就任します。川上監督は、ロサンゼルス・ドジャースの戦い方を取り入れるなど、戦術面で改革を進めていきます。
戦力面では、1本足打法を完成させた王貞治が長嶋と強力な3番・4番を形成し、ジャイアンツは黄金時代を迎えます。
1965年からペナントレース・日本シリーズで無敵の9連覇を成し遂げるいわゆるV9時代です。
1950年代から70年代前半にかけて、プロ野球界はいわゆる投高打低の時代でした。投手の平均的な防御率が2点台だったことなんてザラで、打者の平均打率は2割3分台から5分台という時代です。(2019年のセ・リーグは平均防御率が3.90で平均打率は.260)
そんななかにあって、ONは圧倒的な打力でジャイアンツ打線をひっぱります。
V9時代のONの成績
年 | 長嶋茂雄 | 王貞治 |
---|---|---|
V1(1965) | .300 17本 80打点 | .322 42本 104打点 MVP |
V2(1966) | .344 26本 105打点 MVP | .311 48本 116打点 |
V3(1967) | .283 19本 77打点 | .326 47本 108打点 MVP |
V4(1968) | .318 39本 125打点 MVP | .326 49本 119打点 |
V5(1969) | .311 32本 115打点 | .345 44本 103打点 MVP |
V6(1970) | .269 22本 105打点 | .325 47本 93打点 MVP |
V7(1971) | .320 34本 86打点 MVP | .276 39本 101打点 |
V8(1972) | 1972 .266 27本 92打点 | .296 48本 120打点 |
V9(1973) | 1973 .269 20本 76打点 | .355 51本 114打点 MVP |
V9時代のONは、打率、本塁打、打点の三冠タイトルを9年間で24回獲得し、MVPは長嶋が3回、王が5回獲得します(残り1回は堀内恒夫)。
特に王はV9時代はすべてホームラン王に輝き続けるのですが、1968年から70年にかけての3年間は首位打者も獲得しながら、打点王だけは長嶋に獲られてしまい、三冠王を逃し続けました。
長嶋は王よりもホームラン数が少ないにも関わらず、打点王を獲っていることからも、チャンスに強い打者であったことがうかがえます(王が歩かされたということもひとつの要因ですが)。特に1970年は打率は王よりも6分近く低く、ホームラン数は王の半分にも満たないにも関わらず、打点で王を上回ったのです。
三振すらも絵になった長嶋
長嶋茂雄はスーパースターとして、野球少年の憧れでした。野球少年はみなサードのポジションを守りたがり、背番号3を付けたいと望みました。
なぜ、みんなが長嶋にあこがれたのか?
長嶋は常にどんなプレーでも観客を意識していたからにほかなりません。
ぼくはヘルメットの飛ばし方まで研究したんですよ。
三振はバッターにとっていちばんダメな、みにくいシーンでしょ。
でも、三振しても何か光るものをお客さんに与えにゃならんと思って。
グラウンドに出ている2時間半なり3時間は、お金をとって見せる自己表現ですよ。
自分の肉体、技術をいかに表現するかっていうね。
キャッチボールひとつ、トンネルひとつとっても見せ場をつくらないとプロとはいえない。
『伝説の長嶋茂雄語。』(小学館・刊)
三振すら絵になるように意識した選手というのは、長嶋茂雄をおいてほかにはいないでしょう。



とはいえ、長嶋は三振の多い打者ではありませんでした。最も三振の多かったのが1968年の74個で、三振数はだいたい毎年40個前後でした。
ペナントレースは百数十試合あるけれども、グラウンドに来ているお客さんの中には、その日しか生で野球を見られないという人もたくさんいます。プロ野球選手にとっては百何十分の一試合であっても、お客さんにとっては唯一無二の試合かもしれない。
そのお客さんのために見せ場を作るという長嶋イズムは、ジャイアンツの伝統として原監督や阿部慎之助、そして坂本勇人へと受け継がれています。
引退試合で残した名セリフ、数々の記録も残す
1936年2月生まれの長嶋は、30代に入ってからも20代の頃と変わらぬ活躍をし続けます。
前述したように32歳(1968年)から34歳(1970年)まで、3年連続打点王、35歳の1971年には首位打者を獲得しています。
しかし、36歳を迎え、兼任コーチとなったころから徐々に衰えを見せ始めます。1972年シーズンは、27本のホームランを放ったほか92打点を記録し、王などと共にタイトル争いを繰り広げますが、打率は前年を大きく下回る.266。
37歳の1973年は5月以降、王に4番を譲る機会も増え、夏場以降はほぼ4番を王に明け渡していました。打率こそ.269と前年をやや上回ったものの、20本塁打、76打点と4番打者としては物足りない数字に終わりました。
さらに日本シリーズは負傷で全試合欠場。シーズン終了後に川上監督に引退を勧められました。でも長嶋は現役にこだわり、翌年もジャイアンツの背番号3のユニフォームを着ます。
1974年のシーズンも4番サードで開幕を迎え、開幕戦で第1号ホームラン、3戦目で第2号ホームランを放ち、健在ぶりをアピールします。
しかし、長嶋の衰えを感じていた川上監督は2カード目の大洋戦から王を4番に据えると、以降シーズンのほとんどを3番・長嶋、4番王という組み合わせで戦っていきます。
長嶋はレギュラーポジションこそ確保していたものの打撃面でなかなかチームに貢献できない日々が続きました。そして中日がリーグ優勝を決め、V10の可能性がなくなった10月12日に現役引退を表明します。
この年の引退について長嶋はあと2、3年は現役を続ける意向を持っていたそうですが、連続優勝が途絶えたことや、ジャイアンツの監督就任要請が断れなかったことで、やむなく引退したとのこと。高橋由伸の引退と似ていますね。
その2日後に開催された中日とのダブルヘッダーが長嶋の引退試合となりました。
まず1試合目は3番サードで出場すると、勝負強い長嶋はこの大事な試合の第2打席で現役最後となるホームラン(通算444号)を放ちます。この試合では王もホームランを打ち、ON最後のアベックホームランになりました(通算106本)。
続く2試合目は慣れ親しんだ「4番サード」で出場。第3打席ではセンター前ヒットを放っています。最終打席は8回裏1死1、3塁でショートゴロ併殺打に終わりました。
記者席では「長嶋らしい」という声も漏れたといいます。
実際、長嶋はチャンスに強いバッターでもありましたが、1965年あたりから脚力が衰え始め、盗塁はぐっと減り、その分、毎年15本以上の併殺打を打っていました。
試合後には会場となった後楽園球場にて引退セレモニーが行われ、その時のスピーチでは「我が巨人軍は永久に不滅です」という有名なセリフを残します。
ちなみに、この引退試合には、当時、社会人野球チーム東芝府中でプレーしていた落合博満が会社をサボって観に行っていたそうです。
長嶋茂雄の記録:獲得タイトルと通算成績
【】は2019年現在の歴代順位(10位以内のみ表示)
本塁打王:2回 (1958年、1961年)
打点王:5回 (1958年、1963年、1968年~1970年)
最多出塁数:3回(1959年~1961年)
最多安打:10回 (1958年~1963年、1966年、1968年 – 1969年、1971年)6年連続・通算10回は共に日本記録。
最優秀選手:5回(1961年、1963年、1966年、1968年、1971年)歴代2位タイ。
新人王(1958年)
ベストナイン:17回(1958年 – 1974年)入団から引退まで現役全シーズンのベストナイン受賞は史上唯一。
ダイヤモンドグラブ賞:2回 (1972年、1973年)
日本シリーズMVP:4回 (1963年、1965年、1969年、1970年)歴代1位。
日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1966年、1972年)
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